神様に呼ばれるという不思議な感覚

天河大辨財天社 他府県

天河大辨財天社への参拝記

先日、友人から「奈良の玉置神社・大神神社・天河大辨財天社のどれかに行かない?」と誘いがありました。それを聞いた瞬間、正直に言うと心が少しざわめきました。どの神社も「神様に呼ばれないと行けない」と言われる特別な神社として知られています。

「神様に呼ばれる?」なんて、なんだかおこがましい気もするし、実際にそんなことがあるのかと半信半疑でした。でも興味が湧いて、ネットでそれぞれの神社について調べてみることにしました。

天河大辨財天社の「鎮魂殿」に心惹かれる

検索をしていると、特に目に留まったのが天河大辨財天社。その中でも「鎮魂殿」という場所の存在が気になりました。「鎮魂殿」の真っ赤な朱色の綺麗なお社がとても魅力的でした。既にこの時点で心は天河大辨財天社に向かっていました(笑)

友人に「行くなら天河大辨財天社がいい」と伝え、さっそく計画を立てることに。京都から車での旅がスタートしました。

道中の試練と「呼ばれている」の意味

天河大辨財天社までは、京都から車で約4時間ほどの道のりでした。友人と交代しながら運転をして向かいましたが、途中あまりにも遠く、何度も「本当にたどり着けるのかな?」と不安になる場面がありました。

道は次第に細く、山深くなるにつれて、行く手に立ちはだかるような試練を感じる瞬間も。それでも「ここまで来たら行くしかない」という気持ちで車を進めました。

その時、ふと頭をよぎったのが「これで引き返してしまうと、『呼ばれていない』ことになるのかな?」という考え。もしかすると、ここまで来る過程自体が、神様に試されているのかもしれない。そんな風に思い始めると、諦めるという選択肢は消えていました。

天河大辨財天社に到着

天河弁財天

ついに天河大辨財天社に到着した時の感動は、言葉にできないほど大きなものでした。長い道のりを乗り越えた先で感じたのは、心の奥深くが浄化されるような清々しい空気感です。山間の静寂に包まれた神社のたたずまいは、まさに神聖そのもの。

本殿に参拝し、その後、気になっていた「鎮魂殿」へ。静かな場所でゆっくりと時間を過ごし、自分の内面と向き合うようなひとときを得ることができました。あの時「ここに行きたい」と思ったのは、偶然ではなく、何かに導かれていたのかもしれない。そんな風に感じました。

「呼ばれる」という感覚

帰り道、友人と「神様に呼ばれるってどういうことだろうね?」と話し合いました。その答えは明確ではありませんが、行きたいという強い気持ち、そしてそれを実行に移す行動力が重要なのかもしれません。たどり着くまでに感じる困難や試練を乗り越えた時、初めてその地に「呼ばれる」資格が得られるのかもしれませんね。

天河大辨財天社に行く途中で感じた困難も、振り返ればその土地とのご縁を深めるためのプロセスだったように思います。

最後に

「神様に呼ばれる」という言葉には、少し不思議な響きがあります。でも実際に天河大辨財天社を訪れてみて、それが単なる迷信ではなく、心の奥底で何かを感じ取る力なのではないかと思いました。

もし、どこかの神社に行ってみたいという気持ちが心に芽生えたら、それは神様からのささやかな「呼び声」かもしれません。どうぞ、その声に耳を傾け、自分の心が惹かれる神社へ足を運んでみてください。もしかすると、そこで素敵なご縁や新たな気づきが待っているかもしれませんね。

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